[PR] 正社員就職  一戸建物件さいたま市  チャーター便
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]

新着順:87/96 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

備忘録バックナンバー(6)

 投稿者:HP管理者  投稿日:2008年 9月30日(火)08時10分19秒
  通報 返信・引用
  (小宮路先生備忘録バックナンバー)
8/13〜8/19分

すべての人の上に善意の視線を 投稿者:敏・記  投稿日: 8月19日(火)00時13分30秒

・きょう(19日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・昌代学姉(小山市)・和彦学兄(佐久市)・郁子学姉(静岡市)・章子学姉(長野市)・ライト(アメリカの飛行機製作者、1871年)†パスカル没(思想家、1662年)

 旧約聖書の箴言に『人の良し悪しを言う者の言葉はおいしい食べ物のようで、腹の奥に浸み込む』とある。私たちはなぜ、悪い噂はすぐ信じ、良い噂は軽く見るのだろうか。『人の良し悪しを言う者の言葉はおいしい食物のようで腹の奥に浸み込む』という教えだが、この箴言の言葉は本当なのだろうか。くやしいけれど全部当たっている。私たちは良い噂は、ほんのしばらく舌先でもてあそんで、さっさと吐き出してしまう。大抵は吐き出して見向きもしない。
 そして反対に、じゅうぶんに味わい、飲み込んで腹の奥にしまい込むのは悪い噂のほうである。それも腹の奥にしまったままにしておけばよいものを、牛が餌を何回も口に出しては噛んで味わうように、ことあるごとに口に出して反すうするのである。それは嫉妬心からだろうか、週刊誌的な悪趣味からだろうか、何とも情けないことである。しかも「人間がほんとうに悪くなると、人の失敗や過失をあげつらって喜び以外に何らの興味を持たなくなる」(ゲーテ)から恐ろしい。
 現代は良いことの中にも悪いことを見つけようとする時代である。こんな時にこそ主イエスの教えに立ち返り、その足跡に従って生きるのである。『人の悪口を言いそうになったら、愛を心に沸き立たせ、話題を変えなさい。一人ひとりのうちにある、よいものを見つけ出し、すべての人の上に敬意を込めた視線を注ぎなさい。このわたしの眼差しを、あなたがたは身をもって示しなさい。わたしの心は、好意をもって人を励まし、善意を育て、救い得る一切を救おうと望んでやまない。この心を、あなたがたは身をもって示しなさい』ということを。





--------------------------------------------------------------------------------
講演後の嬉しいお便り 投稿者:敏・記  投稿日: 8月18日(月)02時32分32秒

・きょう(18日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・志保子学姉(下北郡)・淑恵学姉(横浜市)・伊藤左千夫(歌人、1864年)◆豊臣秀吉没(武将、1598年)《歴史メモ・第一回全国高校野球大会(1915年)》

 この者が講演に招かれて行ったあと、受けて下さった先生方から度々お礼状や感想文を頂くが、最も嬉しいお便りは、「“かたち”にとらわれない音楽の楽しみ方に感動した。自分は音大出身なので、どうしても“こうあるべきだ!”という考えを子どもたちに押し付けていた。もっと子どもたちを束縛から解放し、自由にに溌剌とした活動をさせるべきだったと反省した」「今度、支部教研で音楽の指導案を出すことになっている。難しい言葉を並べ立てるより、今、目の前にいるキラキラした子どもとどう向き合ったらいいのか、それがわかった」「音楽の授業以前に、教師としての心の持ち方、人間としての在り方を考えさせられた」という類いのお便りである。これから先の先生方の授業の在り方が変わると思うと、どれほど子どもたちが幸せになるかと嬉しくなってくる。
 現代ほど言葉の氾濫している時代はあるまい。何々理論、何々イズムなど、「理論」の氾濫である。主イエスにあっては、言葉はいつも背後にあった。表面に出てくるものは彼の人格であった。「言は肉体(魂)となった」である。言葉をもってする教育ではなく、魂をもってする教育こそ慕わしい。ちなみに主イエスには特定の校舎は無かった。村や町にある会堂(シナゴク)を利用したが、彼のいた所が教育の場であった。生活を通して具体的に教育して行く彼にとっては、至る所、どんな所であっても彼の教室となった。山・海・道端・井戸端・食卓・船中・森の中・全てが彼の学校であり、教育であった。
 彼はまた、個々の特殊事情に応じて指導した。鳥・百合・星・種蒔きなど、自然を教材とし、灯・塩・光・水・パン・お金など、日常生活に見えるものを材料とし、父と子、商人・農夫など、日常見聞する光景、経験などを教材として指導したのである。実物教育・直感教育のお手本なのである。





--------------------------------------------------------------------------------
中途半端の意志の訓練ではダメ 投稿者:敏・記  投稿日: 8月17日(日)00時06分13秒

・きょう(17日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・理恵学姉(廿日市市)・恵学姉(都城市)・恵利学姉(松山市)・ドラモンド(イギリスの宗教的思想家、1851年)《歴史メモ・源頼朝、伊豆に挙兵(1180年)・フルトン、蒸気船の実験に成功する(1807年)*主日礼拝(聖歌隊練習、ハンドベル練習)

 私たち人間は自分が立てた目標以上の人間になることは出来ない。真剣に信じて進む者はその目標を達成する。いまオリンピックが開かれているが、メダル獲得の栄冠に輝いた者は、みんな訓練に訓練を重ねた結果手に入れたのである。彼らと同じく、「自分には出来る」と信じることだけが、私たちの人生に力をもたらすのである。そしてキリスト者は信じる人々である。その信仰は不可能を可能にし、恐怖心を追い出し、人生に生命と活気と喜びをもたらす。なぜなら、聖書には次のように書いてある。『もしできれば、と言うのか。信ずる者にはどんな事でもできる』(マルコ9章23節)『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、……あなたがたにできない事は、何もないであろう』(マタイ17章20節)
 私たちは信じることが少ないので、偉大な者になれないだけの話である。聖アウグスチヌスがまだ聖人と呼ばれてはいない若い頃、こんな祈りをしたということである。「愛する神よ、わたしは清らかな者になりたいと思いますが、決して今なろうとは思いません。もう少しあとで結構でございます」と。私たちもそうではないだろうか。たった今、なろうとする意志がないのである。「愛に満ちあふれた教師に」「最高の夫・妻に」など。
 良くなろうとする意志を抑えていることは人生の大損害である。私たちは歩くことを怠っていると、足が弱って行くことを知っている。足を強く保とうとする意志を働かさなければ、それは日を追って力を失って行く。だからこそ、力強く生きるためには力強い意志が大事なのである。
 では、意志を強くするためにはどうしたら良いだろうか。肺のために空気が、目のために光線が必要であると同じように、私たちの意志のためには、正しい思想、不動の目標がなければならない。心が養われ、意志はが練されなければならない。私たちの心に、聖書からの思想・考え方が注ぎ込まれることによって、一人々々の人生が決まる。心は自らの内に力を持っているのではなく、神と同化して行く時にのみ源泉となる。神の力が私たちの知性に働く時、それは信仰となる。神の力が私たちの意志に働く時、それは行動となる。だから、『静まって、神を知って』初めて、その心は平和と静寂で満たされるのである。





--------------------------------------------------------------------------------
孤独ではない私たち 投稿者:敏・記  投稿日: 8月16日(土)00時13分41秒

・きょう(16日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・景子学姉(川崎市)・栄誉学兄(廿日市市)・バックストン(英国聖公会の宣教師、1860年)†津田梅子没(津田塾大学創始者、1929年)

 昔、イギリスの国王エドワード一世が、ノービック「という町に行かれた時のことである。エドワード王は、自分を歓迎しようと街頭に出ていた子どもたちの脇を通って行かれた。王が通り過ぎたあと、一人の少女が涙を流しているのをその子の教師が見つけて、「あなた、なぜ泣いているの。王様を見なかったの」と尋ねたのである。それに答えて、少女は泣きながら、「私は王様を見ました。でも、先生、王様は私を見てくれなかったのです」と言ったというのである。
 人は誰しも、自分が愛し尊敬する人物を見たいと望んでいる。また、愛する者が自分に目をとめて欲しいと願っている。自分が愛すると同様に、愛されることを欲するのである。今日、大都市には、群集に埋もれて孤独を味わっている人が何と大勢いることだろう。誰も自分などにかまってくれない、誰も自分に目をとめてくれない、理解してくれる人はいないと、多くの人は寂しい思いをしている。「孤独な群集」という本も出ている。「孤独は静かな田舎にではなく、にぎやかな街にある」と、三木清は、有名な言葉を残した。何百万という群集が住んでいる都会の片隅で、誰からも目にとめられず、神からも見放されたと孤独をかこっている寂しい人が大勢いる。
 そんなとき聖書に親しんでいる人は、キリストが大群衆の中でも、私たちの必要に目をとめて、歩みをとどめて下さるお方であることを知っている。どんな時にも私たちに目をとめて下さっているキリストを信頼し、人生を明るく過ごそうではないか。
 聖書のことば『主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」(イザヤ書43章1節)





--------------------------------------------------------------------------------
いつも心の思いを吟味すること 投稿者:敏・記  投稿日: 8月15日(金)00時35分33秒

・きょう(15日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・明子学姉(川口市)・美保子学姉(稲城市)・倫子学姉(八王子市)・本間俊平(社会事業家、1873年)・ナポレオン一世(フランス皇帝、1769年)《歴史メモ・日本、ポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦終わる(1945年)・大韓民国の成立(1948年)・ザビエル、薩摩に来る(1549年)・蝦夷地を北海道と改称(1869年)・パナマ運河開通(1914年)》

 人に知られては恥ずかしくなるような考えを誰しも持っているものである。ただ、みんな胸の中にこっそり隠して、簡単に人に見せないだけのことである。フランスの思想家ポール・バレリーは「もし視線で人を殺すことが出来たなら、また視線で子どもを生ますことが出来たなら、街頭は死体と妊娠した女性でいっぱいになるはずだ」と言った。これは人の心がいかに憎しみや不純な思いで満たされているかを言おうとしたものである。
 ところで聖書に『十戒』として知られている十ヶ条から成る律法が書かれている。これは聖書の神のご性質をコピーしたようなもので、道徳律と呼ばれている。神は、すべての人々がこの律法を守って行けば、みな幸福に仲良くやって行けるとお考えになりお与えになったもので、今日まで多くの国々の道徳の基準となっている。
 1条から4条までは人の神に対する律法で、後半の5条から10条までは隣人に対する律法である。「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「すべて隣人のものをむさぼってはならない」「という後半の律法を見ただけでも、いかに十戒が健全な人間関係の基礎となる律法であるかがわかる。
 更に聖書を読んでわかることは、この律法がただ人間の外面の行動だけでなく心の中を問うものであるということである。聖書には、この律法の奥深さが指摘されている。「兄弟を憎むものは、人殺しである」とか「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」という言葉がそうである。
 人を憎いと思ったり、不純な思いを持つことが完全な神の御目には殺人や姦淫と同罪であるとするならば、だれ一人として、「私は潔癖だ、正しい人間だ」と主張できる人はいない。事実、神が十戒をお与えになったのは、人間がだれ一人として神の前に自らの正しさを誇りうる者はいないのだということと、だからこそ、心の底から正しい人間になるために人は謙虚に神に拠りすがらなければならないのだということをお教えになるためでもあった。私たちの心にあることは、自分でも気づかないうちに、言葉や行動となって外にあらわれるのだから、いつも心の思いを真剣に吟味していなればならないのである。





--------------------------------------------------------------------------------
私たちは子どもに選ばれた教師か 投稿者:敏・記  投稿日: 8月14日(木)04時26分35秒

・きょう(14日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・都学姉(長崎市)・昌世学姉(小金井市)・由美子学姉(石垣市)・美和学姉(横浜市)《歴史メモ・札幌農学校開校式、クラーク博士着任(1876年)》

 もし子どもたちが、自分の母親を選ぶ権利があったら、もし子どもたちが自分の教師を選び取る権利があったら、果たして私たちは選ばれる教師か、または母親か、と考えてみよう。子どもたちが学校に来て、「ぼくは、どの先生に教えてもらおうか」と思って、先生がずらりと並んでいる所を歩いて行ったとしたら、どうだろう。彼らは、先生がもういなくなってしまっても、まだ、捜し求めて行くのではないかと思う。もし選ぶ権利があったら……。
 しかし、子どもは選ばない。もし子どもが教師を選ぶ権利があったら、果たして私たちは選ばれるほどの教師だろうか。考えなければならないことである。ではどんな教師や親が選ばれるに値する者だろうか。道徳的責任感の面から考えてみたい。子どもたちは、親や教師がいろんな場面に遭遇したとき、どんな選択をして解決しようとしているかをしっかり見つめている。たとえ高くつくとしても、正しい選択をする教師や親の姿を子どもが見て初めて、子どもたちも正しい生き方を身につけるようになる。
 或る父親が駐車場からバックで出ようとしたが、そのとき隣りに停めてあった車をほんの僅かではあったが、傷つけてしまった。このことを見ていたのは、助手席に座っていた6歳の息子だけだった。けれどもこの父親はすぐに運転席から降り、自分の連絡先を書いたメモをその車のフロントガラスにはさんだ。そして息子に自分がしたことを説明し、「たとえ人が見ていなくても、悪いことをしたらしっかり神に謝らなければいけない。そして車の人にはちゃんと修繕して欲しいから、このことをするんだ」と伝えた。この息子は三十年経た今でも、このことをはっきり覚えている。そして6歳の時に父親から学んだ責任感について話してくれるのである。





--------------------------------------------------------------------------------
祝福された人生とは? 投稿者:敏・記  投稿日: 8月13日(水)04時13分2秒

・きょう(13日)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・英嗣学兄(渥美郡)・厚子学姉(福岡市)・奈津子学姉(厚木市)・ナポレオン(フランス皇帝、1769年)†ナイチンゲール没(看護師、1910年)†本間俊平没(伝道者、1948年)

 教師、医師、各種会社員、芸術家などどんな職業であれ、これに対する対する真の報酬は金銭ではなく、一つのことをうまく成し遂げた時の満足感であることは、不変の真実である。したがって、人生における最も大事な事柄は、最高の賃金や俸給が得られる仕事を選ぶことではなく、むしろ最大の幸福感を持たせてくれる仕事を選ぶことである。
 シュバイツアー博士は、どのような時にいちば幸福を感じるかということについて、次のように言っている。「ひどい苦痛にさいなまれている患者が病院に運び込まれる。すると私はその病人に“あなたを眠らせて手術をしてあげましょう。そうすればラクになりますよ”と言って彼を慰める。手術の後、私は病人の枕元に座って意識の回復を待つ。やがて患者は静かに目を開けて、驚きにたえかねた様子で、“もう全然痛みません”とささやく。これが私にとって最大の幸福の瞬間である」。
 ここには経済的・物質的報酬は何もない。しかし心の最深部から湧き出る深い満足感があるのである。同様に、挫折した生を建て直してあげ、さまよえる者を正道に立ち返らせ、絶望した心を癒やしてやり、一人の魂を信仰に導くことは、金銭によって報われるようなものではなく、その喜びはどんな秤をもってしても計り得ないものである。

 『祝福』(河野 進)
 最も祝福された生き方は、
 最も価値無しと思われる人に 最も大切な時間と物をささげて仕える、
 物は買うのでなく 心から創り出す、
 どんな無理を言う人にも たえず微笑んで親切に答える。
 あなたの態度でキリストを見せて下さい。
 
》記事一覧表示

新着順:87/96 《前のページ | 次のページ》
/96